2020年4月3日
新型コロナウイルスの感染拡大が、至る所で多大なる影響を及ぼす中で、1日も早く終息してくれることを願うとともに、罹患により病死された方々のご冥福を心中よりお祈り申し上げます。
当山でも、お彼岸の法要にはご参拝をご遠慮頂く旨を通達し、4月いっぱいの行事の開催を見送ることと致しました。
5月以降のことも現時点では不透明な状態です。
ただ、下を向いてばかりもいられません。
私たちは、コロナの恐怖を感じながらも、この世界で生きていかなければなりません。
「今ある命は当たり前にあるものではない。」
法話なんかでよく聞かれるような言葉も、生活や生命を脅かすような存在が近くにあることで、その事実が現実味を帯びてくるということを身を持って体感しています。
日頃、『死と隣り合わせ』という事実が、いかに薄まっているのかがよくわかります。
コロナの蔓延によって、その事実をまざまざと見せつけられていることを感じています。
正体がはっきりとわからないものほど、怖いものはないですね。
人間は、きちんと理解できていることには不安を抱かないものです。
犬が空を飛んでいたと言っても、誰も驚かないでしょう。
野菜に足が生えてどこかに消えて行ったと言っても、そんなことあるわけないと笑い飛ばして、不安になることもないでしょう。
それは、犬や野菜の正体をきちんと理解しているからです。
今は正体のはっきりしない相手に、不安が大きくなっている状態です。
不安が大きくなると、デマ、偽の情報が流れやすくなります。
今回のことで言うと、トイレットペーパーの事例がそうでしたね。
不安のない状態では保たれていることが、不安とともに崩れ去ってしまうということがあります。
私は100日の荒行での経験を思い出しました。
荒行は日蓮宗の中で最も過酷な修行であり、食事は一日2回の白粥、睡眠の時間は2時間半と、普段の日常とはかけ離れた生活を送ります。
あまり修行中のことを話すことはできないのですが(修行中のことは、みだりに漏らしてはならないというルールがある)、修行中の環境下だと、思いもよらない自分の感情に出会うこともあります。
人のものを盗んででも食べたい。
こんなことを考えてしまう自分に出会うのです。
平時では見ることのない自身の本性を、垣間見てしまうような体験をします。
理性を保てる場合もあれば、理性を保てずに過ちを犯してしまう場合もあります。
ただ、同じ環境下にいながらも、自分の限られた食事を分けてくれるような人間にも出会います。
そんな人間の行いに、改めて大事なことに気づかされることもあります。
余裕のなかった自分に、不安や恐れを取り除いてくれた彼の行いは、布施行の1つで『無畏施』と言います。
『無畏施』というのは、恐れや不安を取り除く施しのことを言います。
また、相手の不安を取り除くこの布施行は、自分の不安を取り除くことにも繋がってきます。
些細なことでもできることはあるはず。
彼が私に施してくれたことを改めて考え、今できることを実践していこうと思います。